鑑真和上の人生
鑑真和上は大明寺で日本僧栄叡、普照の訪問をうけました。
彼らは明律伝戒には鑑真が中国最高の僧と狙いをつけての招請でした。
それまで留学僧として勉強を続けていたのです。
時に天平5(733)年で、鑑真は50歳でした。
招請について、仏法は日本に渡りましたが、その先生(仏法を授ける人)はいません、と額を床にすりつけてのお願いでした。
・・・すると鑑真はそのことをよく諒解しました。
「日本は仏法興隆に有縁の国。誰か行かないか?」
衆僧に訊きましたが、答えはありませんでした。
当時、東海をへて、無事日本に渡れると思う者は、殆どいないといってよかったのです。
「これは衆生済度の法事ではないか、僧たるものが、どうして身命を惜しむ?
希望者がないなら自分が行く」
・・・鑑真は断乎としていいました。
しかし唐の朝廷は、鑑真の出国を許さなかったのです。
遣唐正使、藤原清河や副使、大伴古麻呂らも、朝廷へ一件の交渉をしましたが、うまくいきませんでした。
ところが、宰相が仏法流布に理解を示し、窃に出国を許すと、21人の随行希望の弟子が現れましたが、最初の渡航計画は海賊と通じているとの密訴で逮捕騒ぎを起し、第二回、三回は風浪で駄目。
第四回は国宝的大名僧を東海の小国に送り出すとは何事と、弟子や諸寺の僧らが反対に廻って駄目。
第五回は出港したものの、大風浪にもてあそばれ、猛烈な船酔いと飢渇に苦しめられ「一生の辛苦何ぞこれより苦しからん」と悲鳴をあげたそうです。
漂流14日、海南島に辿りつき、寺に仮寓すること約1年、鑑真はここで失明し、栄叡は哀れこころざし半ばにして什れてしまったそうです。
しかし、鑑真の決意は固く、正使が弱腰であるため、副使大伴が独断で、鑑真の一統24人を二号船に乗せたので、前述の如く6回目の渡航は成功しました。
最初の招請から13年たっていました。
鑑真が万難を乗り越えて仏法と日中親善に尽した功績は偉大といわれており、その日本上陸の第一歩が「阿児奈波」であったということが、また興味ぶかいですよね。
ちなみに「阿児奈波」は"おちなは"と読み、今では沖縄ツアーで観光客などが多く訪れるあの沖縄のことです。